四国遍路に出発するとなった場合、装備や移動時の食料、宿代等で莫大なお金がかかります。歩き遍路の場合は特にそうですよね。
さらに遍路専用の装備や納経も加えると、相当な金額になります。そこで考えるのが、「四国遍路では納経する必要はあるのか?」という問題だと思います。
結論からいえばもちろん人それぞれなんだけれども、実際に初めて四国歩き遍路として各地で納経をしてもらいながら、思ったことを交えて納経の必要性について書いていきたいと思います。
納経所の形骸化と効率第一主義
四国遍路で納経してもらいたい人の理由は様々だと思いますが、一般的には「ご利益がある」「遍路の記念として」「納経の歴史があるから」といった理由が大半だと思います。
僕も当初はそのような気持ちで「とりあえず初めて歩き遍路をするんだし、予算を割いて納経をしてもらうか」と決めて回っていたんですが、各地で納経してもらううちに納経所の実態が垣間見え、「これは果たして納経をしてもらう価値があるのだろうか?」と疑問を持ち始めたんですよね。
上記の理由で納経することに何も問題はありませんが、納経所によってはずさんな対応をされるところもあります。そもそも納経所自体が効率第一主義で信仰心のカケラもなくなっているような場所があるんですよね。
恐らく納経所というシステムが出来た当時は、納経をしてもらう側の人間も少なかったでしょうから、納経所側も対応に追われることもなかったでしょうし、効率を追い求めて形骸化することもなかったでしょう。
現代の納経所は、ツアー客の増加で納経に訪れる人が殺到するとともにお寺の重要な収益基盤になっています。ツアー客の場合は一気に10人〜30人程度の人数で訪れて、それほど時間もなく去ってしまうため、他の納経客も捌きながら大量に納経をしなければいけません。
お寺がその自体にどう対応したかというと、アルバイトを雇って効率第一主義のもと大量の納経帳をさばきはじめたんですよね。
ツアー客が増加しているのは、本来の徒歩等の手段では遍路を出来ない人に価値を生み出せているわけなので、むしろいいことだと思っています。価値の増殖は資本主義の本質でもありますし。
ただアルバイトの中には「いかに納経帳を捌ききるか」しか考えていない人がいて、挨拶にすら応じてくれない場所もありました。
またアルバイトかどうか確認出来ませんでしたが、お釣りを投げるように渡してきた納経所もありました。上記の例は一部ですが、対応が適当な場所は結構多いです。
もちろん納経所の中にはとても丁寧に納経してくださり、親切に声を掛けてくれる場所もあります。ただ上記のような納経所が跋扈している現状もあるので、信仰心や希少性で納経をしてもらう価値があるのかどうか、僕にはわからなくなってしまいました。
納経所の労働形態
でも現状の納経所の体制は気の毒だな、とすら思うときもあります。
88箇所のお寺であっても、重要な収益基盤は恐らく別の事業にあるのでしょう。といってもこれだけ遍路が殺到することによる収益は小さいものでは決してないと思うので、お寺側も重要視していると思います。
でも考えてみれば、納経1回で300円が得られて必要経費はほぼ人件費のみ、大量に捌けば相当な収益になりますが、これってどこまでいっても単純労働・事務作業なんですよね。
常に人を雇えるのならいざ知らず、人がいない時にはお寺の人間が駆け付けなければいけません。
遍路の少ない平日でも納経に対応しなければならないし、オマケに遍路がいつ来るかお寺側は把握できません。納経所の営業時間(7時〜17時)は常に対応出来る体制を作って置かなければいけないし、ある日突然「お寺、しんどいからやーめた!」なんてことも出来ませんよね。
お寺の中には、対応する人間が不在のときにインターフォンを押して呼び出すケースがあります。平日だと遍路が少ないのでこうして対応することが多いのですが、大体呼び出されてきた方は内心「ムッ」としているのがわかります。
それもそのはず、お昼休みを取っているところ以外はどんな作業をしていても中断して対応しなければいけません。
納経所によっては目の前にPCを設置して動画か何かを楽しんでいるお坊さんがいましたが、こうでもしないとやってられないんですよね。恐らく。
何か作業をしていても途中で止められるし、いつ遍路が来るかわからないし、かといって常に納経所に張り付いていても平日は暇なタイミングも多いようですからね。
随分と話が逸れてしまいましたが、もし納経をされるのであれば、こちらも「お忙しい中ところすみません」と声をかけるほうがいいのかなと思ったんですよね。自分が同じ立場なら、確かに意図しないところで呼びだされたらムッとしてしまいます。
納経所の価値って?自動化の未来
納経にどんな価値を求めるのかは人それぞれですが、もし「レアだから」という理由ならば、その価値は年々薄まっていっているかもしれません。
というのも、前述したとおりアルバイトが量産しているのが現状なので、どんどん希少性という意味では薄れていっているんですよね。アルバイトが悪いというわけではありませんが、効率第一主義のもと作ったものは総じて価値が低減していってしまいます。
なので、これらの理由で納経を考えている方は、一度思いとどまっていいかもしれませんね。金銭的な余裕があれば構わないのですが、1回300円の納経を88回、それに加えて納経帳そのものを購入しなければならないので、貧乏遍路には厳しい出費となりますので。
そのうち納経所も機械によって自動化されるのかな、という未来も考えてしまいます。
効率第一主義でいいならば、人間が納経するより機械が納経したほうが「より正確に」記帳できるのは事実ですし、殺到した遍路もすぐにさばくことができます。
バスのツアー客の場合だと、直接納経所には訪れず専用のガイドが大量の納経帳を持ち込んで対応します。お寺の人間とガイドが大量の納経帳をさばいている様子は、まさに作業を「処理」しているといいくらい作業的で効率第一主義なんです。
とにかく投げるように処理しているのと、ツアー客の場合は対応するものが人間である必要がないので、否が応でも機械化されるのでは?と思います。効率第一主義ならわざわざ人間が対応する必要は全くないどころか、人件費を考えると真っ先に排除すべき無駄ですからね。
まとめ
もちろん納経所の価値は各々で決めるべきですが、現状の納経所を見ていると一気に価値が崩壊し、機械に取って代わられるような気がしてなりません。
丁寧に対応してくれるところは対応してくれる方の人柄も含めて「素敵だな」と思うし、実は納経することもそのものよりも、そんな人と話を出来ることこそ納経の一番の価値なんです。でも大半の納経所を見ていると、そのような価値はあまりないなと思わざるを得ません。
事実確認のために納経してみるのも1つの手ですが、少なくとも僕は友人が遍路をすると言った場合にも、積極的に納経を進めることはないでしょうね。
本来の「納経をする必要があるのか」という話からは随分とズレてしまいましたが、要するに過度に期待をすると絶対に裏切られるので、納経してもらう場合はほぼ期待しないくらいの態度で挑めばいいと思いますよ。